書くザトウクジラ

寄り道こそ、王道。

ゃばぃ「時間恐怖症」発症したかも

 

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最近は、ため息ばかりしている。

さすがに朝起きてからのため息は「その日一日がちゃんと始まらないような」気がする。

 

こう見えて、神社仏閣、仏教の世界観がすきで「言霊」や「祈り」の効力はあるものと信じて疑わない質である。

 

現状は猶予期間(良く言えばモラトリアム、悪く言えば準消費動物期間)を迎えて、1ヵ月を過ぎたところだ。その間に、ブログを鬼のように乱投したり、本を程よく読んだり、ラジオ聴いたり、ちゃんと自炊したりした。少なすぎる。いかんせん、生産的な行動ができないのもモラトリアムの欠点である。かといってサラリーマンになることが、生産的役目を全うしたことになるか?というと・・・

 

 

どうも今年に入り、私の思考の流れがおかしい。何かの思想、それも過去の偉人たちや膨大な人類が、何人もの命を繋ぎながら、紡いできた歴史や思想が無性に気になりだす。今年の1月からロングセラーの仏教入門書を読んでみたり、ここ最近はもっぱら岩波の「時間の比較社会学」と「トマス・アクィナス」を平行して読んでいる。

 

やたらと世界の成り立ちや、時間の概念、人間の本質的部分が気になりだす。ここに来て、今まで当たり前と思っていたことへの疑いが急加速してきている。「本棚を見ればその人がわかる」という格言があるが、そのような生温い問題ではない。

 

一体なんだというのだ。私の中の何かが、この世界を変えたがっているのか?それともただの暇つぶし?現実逃避?

私の精神年齢だとあと5年は早いくらい、二冊とも難読の文書なので時間を要するが、少なくとも2週間は欠かさず読み進めている。この短い期間では、なぜ私の中の理性がこの二冊を欲しているかまでを正確に検証いたしかねる。

 

しかし、確実に言えることは現段階でこれら書籍を「おもしろい、興味深い」と思ってしまっている自分がいることだ。

もしかしたら、世界を変えられるかもしれない。そんなもう一人の自分が抱いた、保証もない期待感が、ページをめくる手を進ませているのかもしれない。

 

 

あるアフリカの一部地方において、一ヶ月単位で時間を管理するため、何日、何時間は当然の如く、分や秒といった概念すらなく、その一ヶ月というのも25日だったり、35日だったりするようだ。それは、彼ら民族にとっては「一ヶ月」が何日かという数字的なものは、単なる情報、見せかけでしかなく、意味をなさないのだ。それよりも、農作物のとれる時期や村の祭りの日がいつなのか、ということのほうが重要なのだそうだ。

 

日本を含む先進国では、分単位で電車の運行時刻が決められており、すなわちそれは必然的に、秒数もすべて計算内にあるということだ。

日常生活でも同様だ。買い物のレシートには、購入時刻の秒数まで記載されるのが当たり前になった。こんな些細な消費行動においても、先進国の住民は時間という概念から一生離れられないまま、その一生を終える。最期のときでさえ、最後の一秒までカウントされる。それは、私たちが時間という概念に縛られ続けながら一生を送ることを示す最たる例であろう。

 

一秒が価値をもつ世界と、一秒など無価値だという世界。この二つの相反する概念が、この小さな地球という惑星において、共存することに身震いしてしまう。

 

 

仏教では輪廻転生が信じられていて、キリスト教はこの世界には必ず始まりと終わりがあると謳っていて、反対にトマス・アクィナスは始まりと終わりのない「世界の永遠性」を説いてたり。もう過去何百年も議論されてきた、何万人によって検証されてきた真実に比べれば、今存在してるうちに感じられる、ほんのプライベートな現象って、どのくらい価値のないものなのだろうか。途方に暮れる余裕もない... ...

 

 

結局、以上のように

ため息をこらえながら、5インチの画面に釘付けになり、目をしょぼしょぼさせながら、私が必死に打ち込んだのは、ただ文字の形をした、ただのため息の集積物だった

 

 

明日の朝になれば、私は窓を開ける

 

神聖な空気を体内に取り込む

 

今日こそは時間を味方につけたい

 

 

まだ結論づけられずにいる物事が山積みだ。完膚なきまでに本記事の内容も支離滅裂だし、思いついた通りに書きなぐってるだけだし。

 

ここまで書いて初めて筆を止め、ふと思ったことがある。

 

デカルト「我思う故に我あり」という言葉があるけれど、あの言葉の本当の意味がわかったような。

 

✱Wikiより

自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している我だけはその存在を疑い得ない。「自分は本当に存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できない。―“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明である(我思う、ゆえに我あり)

以上のように、残念ながら、無機質で言葉をただ削ぎ落としただけの説明しかここには記されていない。

 

しかし、今この瞬間に限ってはこう解釈できる。「こんなに考えて結論が出なくたって、それを考えている自分がいる限り、いつか答えといえるものに必ず巡り会える」という、ださいけど、何やら応援歌にさえ変換されそうな。

 

己の中に巣食う悪魔に論破され、従順で何も知らなすぎる無垢な天使にもちあげられ、居場所がなくなりそうだ。

 

大丈夫、私はここに間違いなく「いる」

 

この言葉は本当に強い。何も言い返せない。人間誰しもが理解できて、安心できる、これ以上の真実って、もはや何も無いのではなかろうか。

少なくとも今日私は、自己の存在を再認識できたので、少しだけ、

これからは何でもできる気がした。