書くザトウクジラ

寄り道こそ、王道。

手書き、入力についての平成的解釈

 
 
平成最後の年にやっておきたいことがある。
 
私を表現する手段としての生命線である「書くこと 」についての考察である。
平成に生きた端くれである、そしてこれからも生き続ける私による解釈である。
 
 
 

はじめに

 手書きするときと、画面越しに文字を入力するときの人の思考回路は異なると思う。手書きというものは、誰かに見られることが極端に少ない。見られるとして、会社内や家族、同居人にこちら側がむしろ見せにいくという形が多いだろう。
 一方、入力された文字というものは、不特定多数に見られることが多い。ツイッター、ブログ、インスタグラム。見てほしい、どうか見てくださいという意思がより強いといえる。入力に「力」が入っているように、自分を表現する手段としては確かにその点「力技」であるだろう。
 
 

書き方についての比較

手の問題

 手書きというものは、どちらかの手にペンを持って手と腕を連動させる「片手書き」を用いる。一般的に想像される、あの持ち方である。両手で書こうとするのは幼少期までである。

 入力というものは、様々な方法がある。片手で文字を打ったり、両手で文字を打ったり。それは、各々が使用する携帯電話の形状や画面域によるようである。両手で打っていたとしても、利き腕が左の人は、左手の甲への比重が偏りがちである。私はそうである。
 
 

姿勢の問題

 手書きというものは、イスに座ったり腰を据えて、じっくりと向きあう行為である。「書」くといえば「書道」を連想されるが、正しい姿勢でおこなう、いわば儀式のようなところがある。
 
 入力における姿勢というものは、先述の手の問題とは比にならないくらい、バリエーションに富んでいる。寝転がりながらベッドの上で、仰向けながら畳の上で、カレーの煮込み時間中に台所のそばで。操作しているものが可搬性の高いデバイスゆえ、基本的にロケーションと姿勢を選ばない。
 
 
 

言い方についての比較

 
 手書きというものは、手「書き」と銘打たれているうえ、先述した「書道」にも表れているように、○○を書くと表現するものだ。むしろそのようにしか表現されないもの。
 入力というものは、文字を「打つ」という表現が多用される。一昔前までは、打つ人といえば野球選手やゴルファーくらいであった。それが先進国の多くにおいては大勢が打つ人となってしまった。
 このように、現代化に伴い「打つ」という言葉の新たな意味が追加されたため、辞書の内容も更新されている。
 
 
以下、デジタル大辞泉より引用。
 
 物事をしたり、物を作ったりする。
  1. ㋐鍬 (くわ) などで耕す。「田を―・つ」

  2. ㋑たたいて、平たくのばしたり、鍛えたりして作る。「そばを―・つ」「箔 (はく) を―・つ」「太刀を―・つ」

  3. ㋒キーをたたいて信号を送る。発信する。また、印字する。「電報を―・つ」「タイプを―・つ」「携帯でメールを―・つ」

  4. ㋓布・綿・わらなどをたたいて、つやを出したり、やわらかくしたりする。「わらを―・つ」

 

 「打つ」とは、キーをたたいて信号を送ることである。もはやデバイスという、何かしらの仲介役がいなければ、成し得ない行為となってしまった。
 「書く」にもペンと紙という2つのものが最低限必要であるが、きわめて原始的なものであるため用意に困らない。それに加え、「文字を打つこと」のように、相手が同じ専用デバイスを持っている必要性もない。
 
 
発信〜到達までのフロー
 
打つ→発信者のデバイス→受信者のデバイス→受信者へ
(※インターネットを介する場合に限る)
 
書く→発信者の手書き紙→受信者へ
 
 
 

書くと打つ、この根本的な違い①

 
両者をもう少し掘り下げたい。具体的には、私が冒頭に述べた下記に関して、ゆっくり解説していく。
 
手書きするときと、画面越しに文字を入力するときの人の思考回路は異なると思う。
 
 読み手が、手書きの文字を見たときに受けるイメージの深さと独自性がそれを証明している。ひと目見てわかる違い。こめられた感情の矛先と質量、筆跡の違い。すなわち誰が書いたのか検討がつくこと。
 
 入力した文字に筆跡はない。文字だけで、本当にその人の生み出した言葉かどうか証明できない。その人が入力した瞬間を確認できるわけもない。
 
 手書きした文字には筆跡があるゆえ、個人の特定ができる。その人の感情、状況(緊急性の有無)までにじみ出る。書き手の人間性がそのまま、紙へと乗り移っているかのごとく。
 
 

書くと打つ、この根本的な違い②

 発信する道具がふえるということは喜ばしいことではある。昨今の本離れが叫ばれて久しいが反対に、ツイッターアプリや、ニュースアプリといった新文化の繁栄により、文字に目を通す累計時間は圧倒的に増えたとの調べが出ている。
 
 これからも入力勢が手書き勢を圧倒していくだろう。そのうちすべて電子化されてしまうかもしれない。だが、人の思いまでは電子化されない。
 
 
紙に書かれた一枚のメモ。
 

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 それ自身が世界に一つしかないものであり、コピペもできない。どこか私たち人間の存在意義と通ずるものはないだろうか。オンリーワンであるその人が残す手書きを、生き写しと呼ぶ以外、何があるだろうか。
 
 筆跡が統一された仮想世界では反対に、様々な情報が凝縮された手書き並のアイデンティティが求められる。文字化することの形式は変わっても、表現する手段としての本質までは変わらない。
 
 以上が今回得た考察の結果である。本項を最終と冠せず、あくまで②と付したのは、ご想像にお任せする。
 
どのように、どのような方法で書かれた文章であっても、他者の想像をもって初めて完成されるのだ。