書くザトウクジラ

寄り道こそ、王道。

人は無理に好きになれないし、なるな。

 
その人の顔を思い出すたび、頭がちぎれそうになる。いかり、イカれ、IKAれる。どうしたものか。怒っているときは、まるで私の動物的な部分が反応しているようだ。
 
好きな人より嫌いな人に頭の中を支配され、かき乱されるのは極めて許しがたいことだ。そうかといって、負の感情を追っ払うために自分の好きなことをするのも何か違う。好きなことをするのは、本当にそのことをしたくなったときにすべきだ。
 
私の場合、腹が立ってどうしようもないときは、ひとまず声に出してみる。あの人、本当に腹が立つ。ここには書けないことをボソッとひとり呟くときもある。それで、初期症状はいったん和らぐ。
 
次は、100年後は違う人々である事実をふり返る。これは結構気に入っている概念なので、以前に公言したかもしれない。100年後は、昨日今日うまれた赤ちゃんでさえも、ほとんどが人生を全うしていることだろう。つまり、同年代やちょっと目上の上司など、とっくのとうのとうなのだ。
 
だけどこの考えも、無敵じゃない。思ったより人生は長いからだ。よる目を閉じて、あさ目を開けて、また閉じてまた開けて。たまにくる眠れない日があると、より長く感じるものだ。意外と長い人生は、結局たのしまないと損なのだ。
 
その点、本はいい。架空だろうが、ノンフィクションだろうが、いろんな人生が正直に詰まっている。人の人生を自分のペースで味わえる体験は唯一無二だ。楽しい本に触れていると、時間の経過が早い。それは、自分が主人公である「実際の人生」にも当てはまる法則なのだ。
 
毎日、毎日、トキが過ぎ。人は死に向かって生きているのだと言う人もいれば、人は誰かの役に立つために生まれてきたのだと言う人もいる。いや、単純に人って、死に向かっているというよりもその前に、認知症にむかって生きているのでは。最近ひらめいた解釈だ。
 
生とか死とか、まだ概念的に理解できる。いちばんの恐怖は、なにかまったくわからないこと。一切定義できないことだ。あたりが真っ暗になれば、誰だってパニックに陥るという人間の本能がそれを証明している。かといって、眩しすぎれば今度は目が開けられなくなる。欲張りな生き物はちょっとした成功でもっと、欲深くなっていく。反対に無欲をつきつめると、いろんなものが馬鹿らしくなっていく。かといってそれは、なにも人間的に賢くなったという訳でも、成長したという訳でもないと思う。
 
自分が完璧じゃない人間に限って、人には完璧を求めてくる。私は年齢をとわず、結論を急ぎたがる人とのつきあいは苦手だ。じっくりと自分のことを見てくれる人には敬意を表したくなる。人にされてイヤなことは、人にするな。小学生のときによく聞こえてきた教育用語。目には目を、歯には歯を。この言葉は、やられたらやり返すという趣旨のものではない。仕返しは基本的にしてはいけないが、やむを得ずやり返すとしても、やられたこと以上のことを相手にするな、という願いが込められている。
 
人間には、理性のぶぶんと本能のぶぶんがある。みんながみんな、たかが個人のものさしで測れるわけもない。気にしすぎると、精神も時間ももたない。面と向かい合い、直接物言いできる世の中じゃなくなってきている。他人は変えられないから、せめて、自分のモノサシを柔軟に変えていけたらいいな。直線の定規はもう古い。収納もできて、長さもあって、巻きつけられて、測る対象を選ばないメジャーのような柔軟さが必要だ。