書くザトウクジラ

寄り道こそ、王道。

読書の概念が180度変わる本「読書について」を読んだ感想

 
  

本書を手に取った経緯

 
 これまで誰からも教わることなく、自分の我流で読み進めてきた「読書」という行為にも一長一短があるという指摘が私にとって新鮮だった。読書はすればするほど良いという訳でなはく、読書は絶対的に良いものという当然の認識がいかに愚かで浅はかなことか。一番の時間のムダな使い方は、不必要なことをしている時ではなく、自分自身が「これは良いこと、必要なこと」と信じて止まずにそれを死ぬまで継続することである。それらの重大な決定事項が、軽く立ち読みするだけでひしひしと文面から伝わってきて、半ば義務感に苛まれたような形で購入に至る。
 
 

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書籍名:読書について 他二篇
著作 :ショウペンハウエル
訳者 :斎藤忍随(さいとうにんずい)
総頁数:158
発刊 :1960年4月5日
増刷 :2017年9月5日 第78刷
購入年:2018年
 
 

共感したページを紹介

 

第一章 思索

p8ー3 もともとただ自分のいだく基本的思想にのみ真理と生命が宿る。我々が真の意味で充分に理解するのも自分の思想だけだからである。書物から読みとった他人の思想は、他人の食べ残し、他人の脱ぎ捨てた古着にすぎない。
 
p8ー4 読書は思索の代用品にすぎない。読書は他人に思索誘導の務めをゆだねる。たいていの本の効用といえばその指導をうける人の前に、いかに多くの迷路が走っているか、いかにその人がはなはだしい迷いの道に踏みこみおそれがあるかを示すだけである。だが自らの天分に導かれる者、言い換えれば自分で自発的に正しく思索する者は正しい路を発見する羅針盤を準備している。
 
p11ー5 読書は言ってみれば自分の頭ではなく、他人の頭で考えることである。絶えず読書を続けて行けば、呵責することなく他人の思想が我々の頭脳に流れこんでくる。ところが少しの隙もないほど完結した体系とはいかなくても、常にまとまった思想を自分で生み出そうとする思索にとって、これほど有害なものはない。というのも、他人の思想はそのどれをとってみても、それぞれ異なった精神を母胎とし、異なった体系に所属し、異なった色彩をおびていて、おのおのが自然に合流して真の思索や知識、見識や確信に伴うはずの全体的組織をつくるにいたらず、むしろ創世記のバビロンを想わしめるような言葉の混乱を頭脳の中にまきおこし、あげくの果てにそれをつめこみ過ぎた精神から洞察力をすべて奪い、ほとんど不具廃疾に近い状態におとし入れるからである。
 
p13ー6 読書で生涯をすごし、さまざまな本から知恵をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようなものである。こういう人は報告すべき材料をいろいろ持ち合わせているが、その土地の様子についてはまとまった知識も、明瞭な基礎的知識もまったく欠いている。これと対照的なのが生涯を思索に費やした人で、いわば自分でその土地に旅した人の立場にある。そういう人だけが問題の土地を真の意味で知り、その土地の事情についてもまとまった知識を持ち、実際、我が家にあるように精通しているのである。
 
 

第二章 著作と文体

p55ー11 文体は精神のもつ顔つきである。それは肉体に備わる顔つき以上に、間違いようのない確かなものである。他人の文体を模倣するのは、仮面をつけるに等しい。仮面はいかに美しくても、たちまちそのつまらなさにやりきれなくなる。生気が通じていないためである。だから醜悪この上ない顔でも、生きてさえいればその方がましだということになる。
 
 

第三章 読書について

p127ー1 無知は富と結びついて初めて人間の品位をおとす。貧困と困窮は貧者を束縛し、仕事が知にかわって彼の考えを占める。これに反して無知なる富者は、ただ快楽に生き、家畜に近い生活をおくる。その例は、日々目撃することができる。だが富者に対する非難は、これに尽きない。富と暇の活用を怠り、富と暇に最大の価値を与える生活に意を用いなかった点をさらにとがめるべきである。
 
p127ー2 読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持になるのも、そのためである。
 
p132ー6 読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。
 
 
 
 
ここまで読書をひたすら否定してくる書籍も今や珍しいだろう。誰も教えてくれない、読書の本質を探りたい方は是非。いま一度読書そのものについて思いを巡らしてみよう。