書くザトウクジラ

寄り道こそ、王道。

耳からの情報が信じられない

 

 電話応対。こちらが折り返しにしなければならないとき。相手の言うことを耳で聞き、相手の電話番号を聞き、念のため画面に表示されている電話番号を一瞥するのである。二度手間。そこまでして耳を信頼していないのか。実際のところ、耳だけの情報ではやはり不安なところがある。だがもしも目で得た視覚情報によって、初めて認知行為が完成されるのであれば、我々は視覚に依存しすぎではないか。人の話を思い出せなくても、どんな顔で言われたことかは何となく思い出せる。聞き流しをしなさいと言われたとき、頭を無にすることはできる。だが「見流し」をしなさいと仮に言われても、対象物を目が一旦とらえている時点で、それを理解するな、一切考えるなという方が難しい。視覚に認知された時点で、脳の処理がもう始まっているのだ。色、動き、過去経験の比較等が猛烈なスピードで開始されているのだ。反対に、音声は「音」一辺倒である。それ以上でも、それ以下でもない。

 

 だが、私は昔からラジオが好きだ。脳に処理させるという大袈裟な作業を挟まないせいか、かえってフラットに人の会話が耳にまっすぐ入ってくる印象だ。視覚情報より明らかに情報量のすくない聴覚情報であるが、そこに人間のモノクロというか、アナログな部分を呼び覚ます秘密があるのだと思う。音だからこそ、映像よりもノスタルジーが増すことだってある。人は言葉を発明した。恐らくそれよりずっと前に人は眼を供えていた。もっと言えば、猿人時代から視覚情報を認知していたはずだ。眼をもっている時点で、それは自明の理である。つまり、一見アナログティックにみえた聴覚であるが、視覚より俄然新しい認知器官なのである。視覚情報のみで意味を見出すことができるが、言葉が発明される前は、聴覚情報そのものになんの意味も備えてなかったはずである。

 

 アナログな感覚と思われていた聴覚情報の方が新しく、非アナログな感覚と思われていた視覚情報の方が余程アナログで、野蛮的なものなのだ。だからこそ、人類史において長い間獲得された歴史ある「眼」で得られた情報と、比較的新しく獲得された「耳」。この両者の違いがそのまま、現代の耳の心許なさ、眼の信頼さに繋がっており、まだまだ耳が眼に敵う日は遠いのだと長い歴史越しに思わせるのだった。