書くザトウクジラ

寄り道こそ、王道。

今日の一冊「目の見えない人は世界をどう見ているのか」

 


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 私は月に6〜7冊は読書をしている。そして、キンドルアプリをスマホに入れて読めるように環境を整えたので、ここ最近また読書が楽しい。(以前までは、Kindle Fireでだけで読んでいた)したがって、書評にチャレンジしようという気持ちになるのは当然の流れと言えた。少しでも本の扉を通して、手に入れた新しい世界を自分の居場所に残したいという思いでここに記す。

 

 つい先程ちょうど読み終えた本がある。Kindle版「目の見えない人は世界をどう見ているのか」という本だ。

 

読書理由:本書のタイトルを見たとき、知ってはいけない、知らなければいけない。そんな相反する二つの感情が生まれた。様々な人と生きていく人間社会の中で、比較的自分が避けてこようとしてきた(みずから学びとろうとする機会も動機も生まれなかった)ため、一読しておきたいと思った。

 

 

[著者紹介]

伊藤亜紗。1979年京都生まれ。東京工業大学リベラルアーツセンター准教授。専門は美学、現代アート。もともと生物学者を目指していたが、大学3年次より文系に転向。2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻美学美術学専門分野博士課程を単位取得のうえ退学。同年、博士号を取得(文学)。研究のかたわら、アート作品の制作にもたずさわる。主な著作に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、参加作品に小林耕平『タ・イ・ム・マ・シ・ン』(国立近代美術館)などがある。

 

 

まずは「まえがき」に本書の明確なスタンスが表明されているので、以下抜粋する。

 

 人が得る情報の八割から九割は視覚に由来すると言われています。小皿に醤油を差すにも、文字盤の数字を確認するにも、まっすぐ道を歩くにも、流れる雲の動きを追うにも、私たちは目を使っています。

 しかし、これは裏を返せば目に依存しすぎているともいえます。そして、私たちはついつい目でとらえた世界がすべてだと思い込んでしまいます。本当は、耳でとらえた世界や、手でとらえた世界もあっていいはずです。

 この「世界の別の顔」を感知できるスペシャリストが、目が見えない人、つまり視覚障害者です。

 世界の別の顔を知ることは、同時に、自分の体の別の姿を知ることでもあります。手で「読ん」だり、耳で「眺め」たりと、通常は目で行っている仕事を、目以外の器官を使って行ってみるわけです。私たちは体が持っている可能性のほんの一部分しか使っていません。見えない人の体のあり方を知ると、そのことを強く感じます。

 世界とのかかわりの中で体はどのように働いているのか。本書は、広い意味での身体論を構想しています。

 

 

 実際に目の見えない人の世界の捉え方を知りたいという動機から、生み出された本書。しかし、少しも嫌味なところはない。それはおそらく、著者が研究者のように、ただ純粋にひたむきに新しい世界の捉え方について、真剣に答えを出そうとしている熱意がそう思わせるのであろう。

 

 

 

見えないことと目をつぶること

 見える人が目をつぶることと、そもそも見えないことはどう違うのか。見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまり引き算。そこで感じられるのは欠如です。しかし私がとらえたいのは、「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではありません。視覚抜きで成立している体そのものに変身したいのです。そのような条件が生み出す体の特徴、見えてくる世界のあり方、その意味を実感したいのです。

 それはいわば、四本脚の椅子と三本脚の椅子の違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた、不完全な椅子です。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。

 

見えない世界というのは情報量がすごく少ないんです

 こんなふうに、都市というものを、ひとつの巨大な振り付け装置として見てみる。そうすると、見える人と見えない人の「ダンス」の違いが見えてきます。

 「見えない世界というのは情報量がすごく少ないんです。コンビニに入っても、見えたころはいろいろな美味しそうなものが目に止まったり、キャンペーンの情報が入ってきた。でも見えないと、欲しいものを最初に決めて、それが欲しいと店員さんに言って、買って帰るというふうになるわけですね。

 ところが、見えなくなったことで、そうした目に飛び込んでくるものに惑わされなくなった。つまりコンビニに踊らされなくなったわけです。あらかじめ買うものを決めて、その目的を遂行するような買い方になります。

 

  著者は、通常の世界の見え方から視覚情報を引くことと、視覚情報なしで成り立っていることの大きな違いを「椅子の脚の数」という分かりやすい例えで説明している。

 

 またコンビニでの買い方の見解についても目からウロコだった。我々は目に見える情報に踊らされすぎている。それなのに自分の意思で、自分の財産で買いたいものを買いたいだけ入手していると信じて疑わない。私も本書を読む前に、視覚障害者との買い方の違いについて、比較して考えることなど思いもしなかった。視覚に頼り過ぎている我々は、むしろ視覚に縛られていると言えるのではないだろうか。今まで自分の中で揺るがなかった常識が逆転した瞬間であった。

 

 

 

 

「見えない人=点字」という誤解

 「見えない人の特別でなさ」について、ひとつ例をあげましょう。彼らの触覚についてです。

 「見えない人は点字を触れるんだから、何でも触れば分かるんだろう、すごいな」

私も見えない人と関わるまでは、そんなふうに思っていました。見えない人といえば点字、点字といえば触覚。見える人はついついそんな方程式をイメージしがちです。点字は駅の案内板などいろいろな場所で目にする機会が多いので、そういうイメージが助長されるのでしょう。

 しかし実際は、見えないからといってみんな点字が読めるわけではないし、仮に点字が分かったとしても、それがただちに触覚の鋭さにつながるわけではありません。つまり、「見えない人=点字」という二つの方程式は、二つともかなりあやしい、信用できない方程式なのです。

 まず「見えない人=点字」の方程式について。少し古いデータですが、2006年に厚生労働省が行った調査によれば、日本の触覚障害者の点字識字率は、12.6パーセント。つまり、見えない人の中で点字が読める人はわずか一割程度しかいないのです。

 

 

 私が初めて、点字というものを認識したのは小学生のころだったと思う。学校の廊下の手すりに点々がついていて、それが点字だということを先生から教わった。だが、情報としてはそれだけだった。何が書いてあって、何をどう読んでいいのか全く分からないままだった。学ぶ機会が無かったとも言える。つまり、これと同じことが視覚障害者にも起きているのだ。

 

 点字を習得するには、当然、他の言語のように学ばなければならない。そんなことすら私の認識から抜け落ちていた。むしろ、視覚障害者は点字が唯一のコミュニケーションツールだという認識すら持っていた。視覚障害者である前に、みんなが普通の人間である。みんなに個性があり、それぞれに生い立ちも異なるのだ。同じように扱うことのほうが随分乱暴で不自然なことではないか。

 

[まとめ]

 

 本書を通して、著者と一緒に私も新たな世界の捉え方を垣間見たような気がした。そして、一つ分かった。視覚障害者とは決して弱者などではない、ということ。むしろ、制約のある中で様々な想像力を働かせ、懸命に生きようとしている私達と同じ人なのである。いや、その点においては私達以上なのかもしれない。

 

 これからは、型にむりやり当てはめる考え方をやめよう。私はまだ何も知らない。そんな冷静で謙虚な気持ちが世界を正確に捉えるために必要なことなのかもしれない。偏見を持つことなく、どんな他者にも寄り添える強い意思をもって、手をとりながら生きていこうと思った。